アフロ蛇丸
タチバナナツメ様の企画【Heroic Paranoia☆2011!!!】に第二弾を。
今回は自らを武器としてのし上がった女性を。
・一代目 高尾太夫
吉原の「寛永三名妓」の一人として名高き高尾太夫。
何代目まで続いたのかは諸説紛々で六代目、七代目、九代目、十一代目の説がある。
有名なのは二代目の所謂万治高尾だが、今回は赤子を乳母に抱かせて廓内を道中したことから、「子持高尾」と呼ばれた一代目を。
後に尼となり妙心と号し、日本堤の西方寺に庵を結び念仏を唱えながら穏やか過ごした。
万治三年(1660年)正月二十五日、「寒風にもろくも落つる紅葉かな」の一句を残して没した。
・二代目 吉野太夫
史書によれば十代目まで続いたとされる吉野太夫のこれは二代目。
「寛永三名妓」の一人で、現代では吉川英治作「宮本武蔵」に登場することで知られる。
幼少の頃に林家に抱えられ、十四歳で太夫となり、和歌、連歌、俳諧に優れ、琴、琵琶、笙が巧みであり、更に書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めていたとされる。
また、絢爛豪華な衣装を纏う太夫十八人の集いの際、寝乱れ姿で出てきた姿にも関わらず圧倒的な存在感を放ったといわれるほどの美貌を備えていた。
その美貌は国内のみならず、遠くは明国まで轟き「東に林羅山、西の徳子よし野」と言わしめるほど名を馳せ、馴染み客には後陽成天皇の皇子で近衛信尹の養子である関白近衛信尋や、豪商で当時の文化人の一人である灰屋紹益がいた。
寛永八年(1631年)灰屋紹益が身請けし結婚、時に二十六歳。
寛永二十年(1643年10月7日)に死去、三十八歳だった。
・夕霧太夫
夕霧太夫は初代と二代目が知られている。これは初代。
生年不詳、詳細不明ながら扇屋の太夫となる。大阪の名高き「寛永三名妓」の一人。容姿端麗、芸事に秀でた名妓。
享年二十二とも二十七とも言われ、没した際には大阪中がその死を悼んだ。
死後、夕霧とその愛人藤屋伊左衛門とを主人公とする浄瑠璃・歌舞伎などの作品が多く作られ、それらは「夕霧伊左衛門」または単に「夕霧」と総称された。
二代目は昭和の女優である中村芳子。
・川上貞奴(マダム貞奴)
戦前の日本の名女優。
東京日本橋に居を構える質屋の娘として育つが、生家の没落により芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となり、伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。
日舞の技芸に秀で才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。
1899年、夫である川上音二郎の一座と共にアメリカで公演を行い絶大な人気を得て、1900年にはロンドンでの興行の後、ロイ・フラー劇場で公演、その際には彫刻家のロダンも訪れた。
また時の大統領エミール・ルーペの官邸に招かれ、そこで「道明寺」を舞い、その優雅さから「マダム貞奴」と呼ばれるようになる。
音二郎死後、福沢諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介と恋仲になり、1920年には同居をはじめ、二人の住まいは「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集うサロンとなった。
1946年、膵臓癌により死去、享年75。
その亡骸は、貞照寺に埋葬された。
個人的には吉野太夫が大好きです。
こういう強い女性っていろいろな意味合いで美しいですよね。
もしか前回のマフィアより更にマイナーかも……。汗
コメントありがとうございます。
高尾太夫は引退後を描いてみたんです。
なんとなく、不思議な雰囲気になってしまいました。
吉野太夫に関しては、知性と色気を表現したかったんですが、そこそこ上手くいったみたいですねwww
夕霧太夫は上の二人とは違って若さを強調したくて、背景を白にしてみました。
川上貞奴ですが、デカかったですかね???
1000×700なはずですけど……
玄人さんっぽいですよね、本当にwww
ありがとうございました。